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連続電波障害

とくにないです

デッドエンド

これまでのあらすじ

外岩ボルダリングに置ける登竜門、クラシック三課題のうちの一課題「忍者返し」を完登した私は、次に「デッドエンド」の完登を目指していた。

 

休日ともなれば多い時で数十人のクライマーが集まる人気スポットであるにも関わらず、件の岩場にはほとんど人がいなかった。空を見上げると灰色の雲が不機嫌さを隠そうともせず足早に空を横切っている。

「今日はお昼くらいで上がりましょう」

古藤君が笑顔で私に話しかける。彼は私よりも10も年下だが、何かとこう言ったイベント事に声を掛けてくれ、自宅で暇を持て余すだけの私を救い出してくれるメシアのような存在だ。今日は私と古藤君、そしてその彼女の時田さんの三人での遠征であった。時田さんは少し前に煩ったギックリ腰が気になるらしく、頻りに腰を摩りながら岩場の横にある川で何やら散策をしている。

「今日こそは登るぞ」

デッドエンドへの挑戦はこれで三度目だ。さすがに知名度のある一級課題はそう簡単には攻略できない。岩に触れると特に湿気などは感じず、ひんやりとはしているがさらさらとした感触がある。気温も高くないので岩は絶好のコンディションであると言えた。

一時間ほど掛けて下部の手順を繰り返し、身体を暖めながら本気で挑戦する頃合いを見極める。

そしてウォーミングアップからの延長、核心部分の左ポケットを取ってからの右足上げ…はできないので、左を固めた状態での右手取り。二度目に来た時よりも左ポケットが効くのはコンディションが良いからだろう。右手でクラックを取り、右足を上げてそのまま右手を飛ばしてガバカチへ。ここまで来てしまえば問題があるはずもなくあっさりと完登を決めたのであった。

「おめでとうございます!」

古藤君と時田さんが握り固めた拳をこちらに向ける。私はそれに応じて同じように握り固めた拳を合わせた。これはクライマーが課題を完登した時に交わす挨拶のようなもので、健闘を讃える最大の賛辞でもある。私は熱いものが胸に込み上げてくるのを感じ、今すぐにでも全ての衣服を脱ぎ捨てて駆け回りたい衝動に駆られたが、今後二人からイベント事に誘われなくなる、乃至はしばらくクライミングに興じることのできない遠い場所へ送られるかもしれないと言った一抹の不安を感じて、欲求を心の深いところへと抑え込んだ。

「次は小川山のエイバフ船長ですね」

クラシック三課題も残すは一課題。直近ではゴールデンウィークに挑戦する予定を立てている。二泊三日のこの合宿で、悲願達成できるのだろうかと言う懸念はあるが、打倒モビィ・ディックに執念を燃やすエイバフ船長の如く、私の心は燃え上がっている。

賢者

夜中、例えようのない不安と寂しさに襲われることがある。そんな時私は下着を身につけて部屋の隅へ向かい、一人震えながら夜が明けるのを待つ。時折誰もいないはずの室内に人成らざる者の気配を感じて振り向くと、そこには決まって彼がいた。

短く刈り込まれたごま塩頭に岩のような体躯、浮浪者か旅人かと言うような怪しい風体の彼は度々現れては歯に衣着せぬ物言いで私の葛藤を取り払う。その見た目と言葉から私は彼のことをおにぎり師匠と呼び、敬愛の念を抱いていた。

「私に生きる資格などないのだ」

「生きる資格?そんなもんどこで手に入るんだ?」

「えーと、つまり私は死にたいのだ」

私は悲観的だったがおにぎり師匠にはそんな気持ちは微塵も伝わっていないらしい。だらしなく脱力した手が顎に伸びて、遂には手遊びするようにヒゲを抜き始めた。

「それはダメだろ」

「ダメと言われてもね。そもそも死ぬのに誰かの許可が必要なのだろうか?」

「どうだろうな、最近は何にでも許可がいるからな。今度知り合いにでも聞いてみるか」

許可が必要だとしたら役所だろうか。申請書に死亡動機を記入して審査結果を待つがきっと「厳正なる審査の結果、誠に遺憾ながら貴意に添いかねる結果となりました。貴殿の今後益々のご活躍をお祈り申し上げます」こんな断り文句と共に却下されるに決まっている。お役所なんて場所は人を苛立たせるために存在するのだ。

「今日はもう放っておいて欲しいのだが」

「それともお前、病院で死にかけてる奴のところに行って『死ぬのに誰かの許可はいりましたか?』って聞いてきたらどうだ?」

「そんな乱暴な」

乱暴?死のうって奴が他人のことを考えるのか?死にたい奴は決まって自分のことしか考えてないもんだろ。だから電車に飛び込むんだよ。遅延で何万人もの人間が被る迷惑を微塵も考えてない」

「一理ある」

「本当に死にたい人間は自分のことしか考えない。お前は他人のことを考える余裕がある。つまりお前はまだ本当に死にたいとは考えてないんだ」

彼の賢人アリストテレスの三段論法を、森の賢人と言った風のおにぎり師匠の口から聞くことになるとは夢にも思わなかった。彼は「時間だ」と言って二度三度鼻の頭をこすると、気怠そうな表情を浮かべながら消えていった。

私は衣服を身につけて布団に潜り込むと静かに眼を瞑る。先ほどまでの悲観的な気持ちはもう微塵も感じられなかった。

これまでのあらすじ

これまで何度も日記を書く習慣を付けようと努力したが無駄だった。日記を書き始めて三日程立つと門戸の前を坊主が訪れて、こう囁くのだ。

「I Love HIPHOP

 

今日は有線から聞こえる軽快な洋楽が妙に耳に障る。繰り返されるフレーズには何らかのメッセージを込めているのかもしれなかったが、私の心には何も響いてこなかった。

ちなみに私の学生時代のアメリカ語の成績は2だ。その数字が何を意味するのかは今をもってしても理解できない。だが2と言う数字の持つ言い知れぬ魅力、それは恐らく見た目や発音が大きく関係するのだとは思うが、丸く膨らんだ可愛らしい曲線美と「に」と言う柔らかで優しい響きからすると、到底ネガティブなイメージとは結びつかないので、相応に高い評価を受けていたのだとは思う。

ところで私は今この日記を職場の自席で書いている。勿論就業時間内だ。先ほどから自席の後ろを人が行き交う度に疾風迅雷、電光石火の勢いでテキストツールを最小化し、事なきを得ている。脳からの指令を介さずに脊髄反射でこの動作を行うと言うことは、サボりの発覚を防ぐことは勿論のこと、その動作自体に感情が加わることがないため、本来ならば否応無しに発生してしまう罪悪感、背徳感を排除することができる。つまりは…無敵だ。

終業時間まであと30分。今日は有線から聞こえる音楽が妙に耳に障る。